自らを律する生き方がよい人、好きなように生きた方がいい人

一般に、自らを律する生き方は規範とされる。しかし、自らを律する能力には差があることは、あまり知られていない。もちろん、生き方に大きな個人差があるのは自明なのだが、その原因がよくわかっていなかったので、やる気とか決意の差にすぎないと言うような精神論や、育ちや知能といったスペックに原因が求められてきた。せいぜい「性格」というあいまいな概念でしかなった。故に、本人の努力で直すことが可能だと思われてきたのではないだろうか

ここ数十年になってようはく、ADHDという自己制御が不得意な人たちの存在があきらかにされた。原因は自己制御を司る前頭葉の働き方(覚醒度)が人によって異なるからだった。ADHDは生活に支障がでるほど極端な人たちを抜き出した概念だが、はっきり健常者と障害者が分かれているわけではなく、緩やかに得意な人と不得意な人が分布している。

私は、境遇から自分の性格に自信がもてず、「もっと賢く生きなければ、生きる資格が無い」と自分を追い詰めていたが、ほとんど意味が無かった。典型的なADHDには、無理な生き方だった。それは体に障害のある人が運動選手を目指すようなものだ。

もう無理っす。自分のしたいことをする方向で生きます。お金や社会地位はのたれ死にしない程度あれば充分です。苦手なことは道具や外部委託でなんとかします。その方がトータルの成果物が大きいんです。ではごきげんよー

追記:極論めいた事を言ってみましたが、要するに見通しをたてられるレンジには個人差があるので、同じような感覚で語ることは難しいということです。個人差を埋めるようなプログラムをつくりたいです